冷たいと思われるかも知れないけれど、寂しさなんてこれっぽっちもなかった。
わたしはアメリカが好きなのと同時に、”日本”に心の底からうんざりしていた。
行ったこともないアメリカの土地で一人でやっていける自信があるほど、ここよりひどい場所は地球上にないやろうと思っていた。
そのひねくれた予想は皮肉なことに当たり、サンディエゴは良い土地柄であったし、わたし自身良い居場所に恵まれた。
...でもこの間面接で東京に行って、都市ならではの本物、優れた最先端のものや技術によってもたらされる生活の質の高さにまともに衝撃を受けて、
それで今になって改めて気付いたんですよね。
わたしが忌み嫌っていたのは、”日本”ではなかった。
それは自分の地元であり、実家であり、そこでの暮らしそのものやった。
思えば2年目で初めてホームシックになった時も、家族、京都市内の神社仏閣やお庭、大阪のミナミ、抹茶やたこ焼きやお雑煮、関西弁に思いをはせ、冬の間一人でめそめそ泣いていた。
地元の風景なんて全く思い浮かばなかった。
わたしの住んでいる町には、何もない。
何もないというのは、文字通り何も無い。
洋服屋さんもなければどっちみち着飾って行く場所もない、
街路樹の植わった並木道もない、
銅像もない、噴水もない、
人々が憩える場所もない、
図書館には資料が十分にない、
夜道には街灯もない、
郵便局は空いてない、
プールもない、
バス・電車もない、
バス・電車もない、
絵を描きたくなるような美しい自然もない。
高校も他の町まで出ないとないし、中学も外で行ったので12歳以降のここでの思い出もない。
言うなれば似たような建て売りの家と田んぼとインターネット以外何もない。
毎日遠くに働きに出て帰ってくるだけで必死の新興住宅街の人々同士は近所付き合いなんて余裕もないし、
そんな大人を見て育った子供も人生で大事なことを見失いかけている。
自分を含めここで育った人は、心が貧しいのだと。
自分の人生を振り返る度、インターネット中毒になってないで、なんでもっと10代のうちにいろいろなものに触れとかんかったんやろ、
なんて後悔してた。
でも今ここに戻ってきて分かる。
車を持ってどこかに行くか、インターネットで外と繋がってない限りここではまともな生活は送れない。
これは当時子供やったわたし一人の力で何とかできるものじゃなかったんや、きっと。
「環境を変えても自分が変わらないと何も変わらない」って前に誰かが言ってたけれど、
それは間違いやと思う。
環境が変わらないと、人は変われない。
環境に振り回されて、生活どころじゃなくなってしまうもん。
不思議なことに地元愛はある。
友達とふざけて、何もないんやから地元Tシャツぐらいは作ろうかとも言っている。
でも自分が生まれ育ったという事実を除けば、やっぱりこの場所が大っ嫌い...(笑)
わたしは建築家になる上で、東京に行ってインスピレーションを得たと同時に不安にもなった。
こんなひどい場所(笑)で多感な時期を過ごした心の貧しいわたしに、人に生き方を提案するような尊い仕事が果たしてできるのだろうかと。
わたしにとって家はただ疲れて帰ってきて寝るだけの場所やった。
例えばあんな刺激的な東京や良い家庭環境で育った建築家には、きっと競り合うことすらできない。
でも逆に言えば、こんな暮らしはいやだという暮らしのレベルは知っている。
それを除いた暮らしを提案することは、最低限できる。
と同時にこれはわたし自身にとってチャンスなのかもしれない。
建築家になるという言い訳で以て、よりよい暮らしとは何かを探っていける。
自分自身の貧困な暮らしぶりをマシにすることができるかもしれない。
あと3か月もすればここを離れる。
今の心境は、やっぱりあの時と同じ「せいせいする」。
家族と離れるのは寂しいけどね( ̄▽ ̄)...
全てをこの町のせいにするつもりはないけれど、わたしは選べるなら他の場所での生活を選ぶ。
...もし将来ホームシックになったら今書いたことぜんぶ読み直そう...(笑)
日本人として、世界に誇れるCool Japanをまだまだ発見したい。
3か月の間に、”日本”の良い所を沢山見つけて、胸に持って帰りたいです。
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